散れない花 枯れた花
GWになると牡丹が咲きだす。
これは2013年4月24日の写真。
うちの牡丹はわりと下品に咲く。
新宿のスナックの、
美人だけれどガハハと笑う。
大酒飲みのホステスのようだ。
今は蕾が膨らんでいる
あっという間に咲いてあっという間に散って行く。
派手に短く。な花だ。
なかなか散らない花もある。
はやく散りたいのに時間をもてあまして
退屈していていろいろ気になって
でもめんどくさくもなってきて
でもすでにもう花でもないのに
長い時間をもてあましている
咲かないで枯れた花もあった。
その花の周りをよく見ると
小さな花がたくさん咲いていた。
どんな花もネコも愛おしいのは
すべてに自分の分身が宿っているからなのか。
すばらしいコンサートに行って
一体感を味わった時に
そこにいる観客すべてが自分だと思った。
演奏者もお客さんもすべてが自分の分身だと感じたとき。
自分と他人の境界線が限りなくゼロに近づいたときだった。
でもコンサートが終わってまた日常にもどったら
自分は自分、他人は他人。
そこはまるでカプセルホテル。
やはり皮膚、肉体という牢獄の中からは
死なない限り抜け出せないのか。
世界が全て敵にまわっても
信頼できる、味方になってくれる人が一人でもいれば
全然大丈夫だと思う。
その一人でも自分の味方になってくれるのだと思うと
その人のために生きて行ける
信頼できる人が多ければそれに越したこともないだろうが
たった一人で充分だと思う。
でも、そのひとり、すらも
いない人はつらいよね。
ぼくがなってあげる。なんて簡単な話じゃないからね。
でも、本当はいるんだよ。すでに。
ただ、その人が気づいてないだけで
信頼できる人は誰にでもいるんだよ。必ず。
もし、その人が誰かを信頼することができるならば。